☆やまちブログ☆(志ろがねの牧だよ!)

ちっちゃな出来事・ビックリ・喜び・
悲しみ・感動…etc
沢山『足跡』残していこう!!

「バトンタッチ」
・・・恭次の記事より・・・・

   (7月13日舘石開拓地前にて-オヤジ撮)

いよいよ6月からは、牧場開拓を始めようとおもっていましたが、なかなか思うように行かないのがやはり現実のようです。

まずは何でもそうでしょうが、新しいことを始める前に、しなくてはならない事がありました。私の代わりをしてくれると言っている妹(令子)に自分がやってきた役割をしっかりと伝えなくてはなりません。

もし伝えるべき事がしっかりと伝わっていないと、大きな失敗につながる事と思います。1つは毎週3回必ず行われる、集乳、そして集乳車の洗浄です。これは、とても責任重大な仕事です。集乳する量を間違えてもお客様に配る牛乳が足りなくなったり、逆に多すぎて、沢山余ってしまったりなど、本当に大事な仕事です。

そして何よりも緊張感を忘れられないのは、集乳タンクの洗浄です。細かい手順や、分解しながらの洗浄です。また真夏は特に牛乳はとても菌が発生しやすい為、一つ一つの器具や牛乳を吸い取るホースなどデリケートに磨いていきます。とにかくこれが原因で、お客様に迷惑を掛けたくない。乳製品の生産者として、一番怖い部分でもありました。

二つ目は、牛乳配達です。一軒一軒、冷蔵車に乗って牛乳をお届けします。車の運転、道を覚えるとか、お金のやり取り、お客様との会話、正直5年もやっている私でも、間違えて迷惑を掛ける事が未だに度々あります。

なかなか妹にとっては慣れない事ばかりですが、私も安心して牧場開拓に専念するためにも、しっかりと伝えて行きたいと思っています。

今になれば、集乳車や、冷蔵車に乗って仕事するのが牛乳屋としての必須条件となっていますが、私が集乳担当になったのは、今から5年前の事、丁度北海道の修業から帰って来た年です。それまではと言うと、集乳車というトラックが無かった為、38箸陵∩缶にバルククーラーから牛乳を移し、我が家の牛乳は多くても5〜6本、熊谷農場は、10本以上それぞれが自分のトラックで運ぶのでした。勿論、プラントの方々にも当初は大変な思いをさせた事でしょう。

また牛乳配達も、最初は冷蔵車なんか買うお金が無かった為、2tダンプでダンボールに保冷剤を入れて盛岡市へと宅配に行ったそうです。ダンプの荷台には囲いが無いため盛岡まで行くとパックに汚れが付いてしまったそうです。それでも、友の会会長の花田さんを始め、沢山の応援を頂く事が出来たそうです。

それぞれが重い牛乳缶を運んだり、ダンプで牛乳配達したり本当にどこをとっても、両親、熊谷さんのやってきた、ゼロからの牛乳屋は、本当に凄いとしか言いようが無い!まだまだ私自身に見えていない熊谷農場と吉塚農場の苦労も知らないまま、当たり前のように、スイッチ1つで2軒の牛乳を運べる集乳車で集乳し、真夏の暑い時期でも汚す事無く冷やしながら宅配できる立派な冷蔵車で牛乳配達をしたりなど、これを考えれば考えるほど私の辛い気持ちなど、口が裂けてもいえません。

大勢のお客さんに囲まれ牛乳が今でも宅配、発送出来る事、農場が今でも続けられている事、そして新たに農場を切り開く元気を持てる事、皆さんのお陰であり、2軒の農場の苦労の成果だと思っています。

最後に、まだ余り苦労をした事が無い、まだまだ目先の事をこなすのが精一杯な私ですが、これからも限られた人生の中で沢山の苦労をし、一生懸命頑張って、結果的に世の為に全力を尽くせる人間を目座していきたいです。
| 頑固オヤジ | 恭次 | 10:25 | comments(0) | - |
どうしてこんなことが!(3/17時点)恭次
3月10日この日は週1回のいつもと変わらぬ牛乳配達でした。

朝5:30に牛乳を積んだ冷蔵車に乗って出発。
宮古市、津軽石と沢山のお客さんと会話をしながら笑顔も一緒に配達し、そしてエネルギーを沢山貰って帰って来るのでした。

お昼過ぎになると今度は、田老、岩泉へ行き、最後は田野畑村、まず45号線沿いを配り島越、羅賀地区を配るのは、2時半〜3時半の間でした。いつも配達の時に通る島越からの平井賀トンネルを抜け、海沿いを走る。

秋の村内駅伝のコースでもあるルートは、地元の私でも何度走っても飽きない好きなルートでもありました。大勢の漁師さん達が沖の方で仕事している光景も良く見ていました。そして、ここを走りながら感じるのは、「毎週のように浜の人達にまで牛乳を飲んで貰えるなんて、本当に嬉しいなー。」

たまに羅賀の友達に会う事もあり、目が合えば必ず手も振ってくれました。彼は中学の時からの親友で、浜の仕事で余った魚やタコ、ワカメ、昆布などを物々交換と言いながら、牛乳を2,3本でごまかし、良く大量に貰っていました。私達の様な山沿いの人にとっては、海から取れた宝石の塊りと云っても良い位です。このような事に感謝しながら海沿いの配達を終え家の方へ向かい充実感一杯で帰る事ができました。
 
まさか次の日の同じ時間帯に、この島越、羅賀がメチャクチャになるなどとは想像もしていませんでした。
翌日、毎週土曜日に行われる最近スタートを切った普代村・野田村・久慈市配達、更に全国に発送する牛乳の製造日でした。いつものように朝から皆バタバタと忙しく午前中の作業をこなします。

午後からは両親と三人で島越へ用事があり、14時半頃家を出て島越へと向かった14時40分頃突然、母と私の携帯から緊急ブザーが鳴り、開いて見ると「三陸沿岸地域大地震発生」と書いていました。

その直後でした。目の前の電柱が大きく揺れている事に気が付き、車の中でも凄まじい揺れをハッキリと感じました。そして地震が治まり間も無く村内無線により「大津波警報が発令されました」と放送されました。「大変だ―!」と、予定していた用事を中止して、急いで家へ戻りました。

途中、消防へ向かう兄とすれ違い、家へ着くと留守番していた兄弟達は、外へ非難していました。勿論、停電になっていましたが、家族と家と牛舎の無事を確認し一安心していました。私達は防災無線の電池がなかった為、その後の情報を聞く事が出来ませんでした。しかしカーラジオや、辛うじて映るカーナビのワンセグを見てみると釜石、宮古市、が流されたと知り、島越と羅賀が、凄く心配になって来ました。とにかく詳しい情報は、消防から帰って来る兄を待つしか無かったのでした。

私は夕方の搾乳の準備を始めました。すると間も無く兄が帰って来ました。兄は信じられない情報を持って来たのです。「大変だ―、島越も、羅賀も、田老も全部流されてメチャクチャダ―!」私はこの情報を信じる事が出来ませんでした。

兄は何でも大げさに話す所があり、「嘘だ―!田野畑がこんな事になる訳がない」そう頭の中で何度も言っていました。しかし次の日兄が現場から携帯で撮って来た写真を見ると、それは本当に凄まじい画像でした。言葉が無くなるほどショックでした。

「同級生は無事かな?あの人は、この人は・・・無事かな?」といつの間にか変な方にばっかり考えてしまう自分がいました。そして「皆、無事でいてくれ。」と神様に祈ることが精一杯でした。

こんな時こそ、山沿いに住む私達が協力し被災者達にできる事を精一杯したい!
家がない、水がない、電気がない、食料がない、布団も無い本当に誰もが信じられないほど何にも無くなってしまった人達へ・・・。

家では今、本来であれば出荷しているはずの牛乳が、停電のため牛舎のバルククーラーに沢山冷えている。しかし、牛乳の出荷ができない為、何処の酪農家も捨てるか近所の人に差し上げるしか、処理する方法がないのです。

今、唯一地元で生産が続いている牛乳が何とか地元で大きな力になって欲しいと思っています。

今回の震災をきっかけに、命を無くした方、財産を無くした方には本当に言葉がありません。たまたま山沿いに住んでいた事で自分の家も家族も、そして仕事も残す事が出来たこの現状には、感謝と云うよりも申し訳ない気持ちで一杯です。

今は、ここにある物で全力を尽くし、生活を送ることが精一杯ですが、これから少しずつ少しずつまた東北、関東地方が復旧できるように・・・、いや、新しい日本に変るように協力して行き、10年後、20年後に今回の”震災が変る切っ掛けになった”と言える時が来て欲しいと思っています。

さあ、今回の東北関東大震災によって壊滅状態となった地域がどうすれば立ち直り、発展へと向かう事が出来るのか、今後、真剣に考えて行きたいと思います。おそらく日本は変ります。
| 頑固オヤジ | 恭次 | 06:57 | comments(0) | - |
岡山へ出発・・・の裏
 長女の旧姓(吉塚)浅野都が7日無事出産ってことで、居ても立っても居られず、孫の顔が見たいと両親2人は経営に気を使い格安の夜行バスを使って、宮古バス東京、東京バス岡山へと1人1万円以下の交通費びっくり考えただけで誰もがドッと疲れる話だと思います。「ヤレヤレ汗お疲れさんだ事ビール
 しかし、もっともお疲れさんなのは家に取り残された我々でした。「自分で云うのもナンだけど」とにかく牛乳の発送業務が何よりもドキンちゃんだった。お客さんとのやり取りも全てやらなくてはならないのでした。生まれ付きかもしれないが、頭の中がメシャメチャです撃沈
 でも無事?・・・かどうか分からないけど、とりあえず今週の分は1段落しました。何もないことを・・・、イヤ無事に牛乳が注文通り届いている事を祈ってます。
 さて、月曜日には父が先に帰って来るとの事、これはこれでどっと疲れるのかもしれない(冗談×2)居ないよりはいた方が助かるよマル秘
 まあ、こんな感じで留守番組も頑張っているので、ゆっくりと岡山を楽しんできて下さい。
| 頑固オヤジ | 恭次 | 23:06 | comments(1) | - |
第三分団へ参上!
 お久しぶりです。なかなか投稿せず、すいません m_m”

 さて、まず「今さらか怒りマーク」って突っ込みたくなる方もいらっしゃるとは思いますが、明けましておめでとうございま〜すグッド今年も宜しくです男

 年が明けて、私は地元の消防の第3分団に入りました。そして1/10初デビューとなった、「出初式!」「えっ!?」「出初式って何びっくり」と私は何が何だか良く分からないが、とりあえず兄が「行くぞ!」と言うので、とにかく見よう見まねで着た事もない消防服に変装グッド  (独り言)「俺、今日行って大丈夫なのかな・・・?まぁ何とかなるベーグッド」といつもの自分の性格でやるしかないと決めました。

 さあ初めての消防車に乗って、会場へ到着しました。そこには、大勢の消防団が綺麗に整列していた、初めての何とも言えない光景だった。なぜか「北朝鮮」を思い出した。とにかブッツケ本番の私は、皆のまねをするしかなかった。私は2列目の1番端に整列した、分団長さんが前に出てきた、何としゃべったのか分からなかったが、先頭の列の奥の方から「1,2,3,4・・・」とひとりずつ順番に番号を言っているのに気がついた。私は先頭の最後の後ろだった「最後の人が8」と言った。自分の番が来たのかと思い、「9」と言った。皆の表情が変わった、どうやら私は言わなくて良かったようだ汗
 まだ始まったばかりなのに、先が思いやられる心境だった。
 この後も、見事にすべての動きが皆とズレテいましたが、何とか出初式を終えることが出来、ホッとしました冷や汗

 
| 頑固オヤジ | 恭次 | 11:06 | comments(4) | - |
本当に伝えたい気持ち
 誰にも自分の気持ちを分かって欲しい姿勢は必ずあると思います。しかし「伝える」と云うのは、時間が掛り、とても難しいと思います。そして、そこに焦る気持ちがあると、出来もしないくせに先に口が動いて結局、説得力がなく全然伝わらない。
 自分は、出来る人と出来ない人の違いをよく感じる事がある。自分にとって出来る人と云うのは、人間として尊敬できる人でもあり、目指す人間でもあります。何が凄いかと言ったら、出来ない理由なんか何一つない!どんなに厳しい状況でもやりとおす、努力のレベルが全然違うジョギングこれを考えた瞬間、自分の努力と思っていた事が努力に当てはまらない気がして、辛いという言葉を使えなくなってくる!「努力ってこんなレベルじゃない!自分の努力はまだまだ未熟だ!出来ないのは、気持ちが負けて、言い訳を言っているだけ」
 
 自分は出来る人間になりたい!
 
 コレが信頼を生み、自分の気持ちを伝えられるきっかけなのだと思っています嬉しい
| 頑固オヤジ | 恭次 | 22:39 | comments(0) | - |
しゃべりば
 今日は久しぶりに雨降りそれも少し冷たい雨でした。やっぱりこんな天候はため息ぐらいしか出てこない。しかし今日はちょっと違う普段、表に出さず我慢していた事を何かのはずみでいつの間にか口が開いていた、そして両親に向かって主張悲しい

 その事が実行に行かなくても口から出す事で気持ちが冷静になり、気分が変わる嬉しい
 
 でも言いすぎて逆に喧嘩にならないように怒り

 
| 頑固オヤジ | 恭次 | 20:06 | comments(0) | - |
酪農実習
 私が向かった最初の牧場とは旭川市にある北海道では有名な山地酪農をしている所でした。私の将来にピッタリの実習でした。1日2食のハードな作業は想像を大きく上回るものでしたびっくり成牛70頭規模を餌やりから牛糞の処理までほとんどが手作業、搾乳もバケットミルカーといって、今の家のように小規模酪農家が使っている機械で搾っていました。こんなに体を使ったのは生まれて初めてでした。また毎日こんなに疲れたのも初めてでした。

 1日の何よりの楽しみは、飯を食べる事でした。お腹が本当にすけば味が分からない位何食べても美味しかった食事
 ちなみにこの頃私は1日2食のため、1食で3合食べました。本当にあの頃は大食いでした!だって10時頃朝食をとったら、夜の9時〜10時位まで何も手べられないのですから
| 頑固オヤジ | 恭次 | 23:08 | comments(0) | - |
電車アクシデント
 兄がいない2年間はあっという間に過ぎて行きました。さあこの2年間で鍛えた腕力にも自信を感じ、少しづつ私の気持ちは実習へ向けての緊張感へと変わっていきました。やっぱり実習から帰ってきた兄は、1回りも2回りも自信を持って後継者として仕事に取り組んでいました。そんな姿から刺激を受け、1年後の実習が益々楽しみと緊張感でいっぱいでした。
 
 そして、いよいよ!
 
 地元、田野畑高校卒業式、そして翌日はもう北海道へと出発です。

 八戸港からフェリーで北海道苫小牧港、そして電車で旭川へと行くのでした。しかし、私にとって今まであまりお世話になる事もなかった電車で行くという事はこの時の自分にとってまず最初の大きな壁でした。何もカモが初めてと言っていいくらいでした。

 残り10分で予定の電車出発だった!
 
 駅に入り何も知らない私はまず、全く知りもしないセビロ姿のあんちゃんを見本について行った。あんちゃんは自動キップ売場へ行きたった1度も迷うことなく慣れた手つきでピコピコとボタンを押しキップを買ってその場を去って行った。あまりの速さに、覚える余裕すら無かった!自分の番が来た、さっぱり意味が分からなかった。なかなかできないため、後ろの10人くらいの1列の人達が迷惑そうにしている事に気がついて、1番最後にやる事にした。自分の番がくるまでの1人1人のキップの買い方を全部見ました。そして出発まで残り3分を切った、とうとう焦る気持ちばかりで訳が分からなくなった。残り1分を切った!エキンさんに訪ねた!「旭川までのキップをください冷や汗」「なんでこんな時間に買いに来るんだ!」と怒鳴られました。
何とかギリギリセーフで乗る事が出来ました。
 
 これだけでは終わりませんびっくり
| 頑固オヤジ | 恭次 | 21:59 | comments(0) | - |
新たな出発!
 私は、中学2年の時に搾乳60頭規模の山地酪農に夢を見ました。
 
 とにかく大きな牧場をやりたかった。
 
 そして中学3年、兄が来年から2年間北海道の酪農の修行へ行く事になりました。この時私は、兄に失礼な事を分かっていながら、「ついにやってきた!自分が家で本当に頼られる時が!」と、口に出して言った事も記憶にある。勿論兄が行ってから楽しいだんだん来年が待遠しくなってきた。「早く来年にならないか」祈る毎日が続いた!本当に私という奴は、ヒデー奴だ雷と自覚してました。

 いよいよ私にとっても兄にとっても待ちに待った兄の旅立つ時がやってきた・・・
 
 家族はみんな緊張感いっぱいの兄へ向かって「シッカリ頑張ってこい!」とか「体大事にね!」と握手をしてのお別れだった。勿論私も握手をしました。しかし、心の中は「どうぞごゆっくり、後はこの俺に任せてくれ!」と云う気持ちでした。

 次の日から私の気持ちは高校を自転車で3年間通うことと、朝の搾乳を手伝ってから行く事に切り替わっていました。

 そして高校三年間は、自分が親に頼られている喜びと、厳しい実習へ向けての体力作りで毎日が充実していました。

 もう実習へ行く覚悟は、準備万端グッドでした。

 だんだん実習への緊張感は日に日に強くなってきました。

        つづく               〜恭次〜 
| 頑固オヤジ | 恭次 | 21:47 | comments(0) | - |
将来の夢!
 私は子供の時から未だに、音楽、踊り、スポーツが大好きでした。その代わり自慢じゃないけど机に向かって問題を解く勉強は、見事に全教科嫌いでした・・・?(今も・・バッド
 こんな私は小学校卒業ギリギリまで将来の夢が(ロック歌手カラオケ)でした。しかし、当時の私の気持ちは自ら両親にも語っていたせいなのか、中学に入るとだんだん手伝いの内容も少しづつレベルアップして、中1で刈り払い機、チェーンソーをマスターし、中2ではダンプ、トラクターの運転を覚えました。

 これは大変だ!まさにこの時、初めて自分の気持ちが牛飼いに変わった瞬間でした祝「歌なんか歌っている場合じゃないじゃん・・・こんな面白い仕事だったとは!」とこれがすべての始まりでした拍手

 この後私は、目標が見つかり、新しい夢を見ちゃうんです。そしてそこへ向かって走り出す事が出来たんですジョギング
                    つづく     〜恭次〜 
| 頑固オヤジ | 恭次 | 22:03 | comments(0) | - |
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